||   罪の名残   ||

〜後編〜


 真頼はしばらくの間、半歩後ろを歩きながら雑言を口の中に溜め込もうとでもしているのだろう、素直につい
てきていた。しかし志堂が昇降口の方向とは違う向きに足をやったのを確認して、憮然とした声を出す。
「帰るんじゃあなかったのか」
「それより、先に」
 前を見たまま、志堂は短く返した。真頼はまたふつりと黙り込む。
 ようやく人気のない階段の踊り場にたち、志堂は真頼を振り返った。そこで、美しい顔は怒っていても損な
われるものではないと志堂は思う。
「……真頼、」
 暗がりの真頼は心持ち斜め下に目を逸らしていた。二人きりになったことで余計に触れ合う肌を意識される
るか、真頼の繊細な手は志堂の無骨な手の中でもがく。
 しぶしぶ離してやると安心したように抱え込むものだから、それが更に志堂の加虐心を煽っているとは真頼
は想像もしていないに違いない。おさなげなその仕草は、どうしようもなく男を誘った。
「……誤解される」
「誤解じゃないだろう?」
 間髪入れずに切り返し、志堂は唇だけで嗤った。
 志堂にこだわっているくせに、いまだに真頼は本心を認めたがらない。
 それが志堂には愉快でもあり、腹立たしくもあった。
 志堂を自由にさせているようでいて、その実縛っているのは真頼の方であるというのに。
「いい加減認めろよ」
「何を」
 志堂は深くため息をついた。
 こうしていつも堂々巡りだ。
 志堂がなかなか核心を突けないでいるせいもあるのだが。
 問題を目の前に据え置くことで、失うものが恐ろしい。できれば言わずに手に入れたいと思うのはわがまま
か。
 それなのにこの曖昧な関係性がもどかしく、焦れて手を出さずにはいられないのだ。
 本心に触れ合うぎりぎりのところで言葉を交わす。
 そのことが楽しみから移行していったのはいつだっただろう。
 そしてそれは真頼も同じなのだ。
 触れ合うことに怯えるくせに、離れていこうとするとそれを真頼は咎める。
 だから落ち着いたころにもう一度、
「真頼、手ぇ出せ」
 こう志堂が命じると、呆れるほど素直に差し出すのだから余計に始末に悪い。
 階段に座り込み、自分のものよりひどく細い左の手首をあらわにする。志堂は目を細め、満足に喉を鳴ら
した。
ゆっくりと血管の上を親指の腹で擽ると真頼は肩を竦め、小さく震える息を吐いた。
「志堂、……志堂。お前、も」
「……ああ、」
 やわらかな熱のこもった催促に、志堂は自分の左手を明け渡した。普段人形のように清楚で温度をなくし
ているように見えるぶん、こういったときの真頼はたまらない。腹の奥で熱が燻り、喉が干上がる。
 誰も知らない薄皮を一枚剥いだ下に眠る、真頼の本性がこれだ。
 ――それならば、その奥は。
 全てを奪いつくしてやりたい情動はあれど、一歩距離を詰めれば真頼もまた同じだけ逃げる。
 追い詰められる壁はまだ見つからなかった。
「志堂……、」
 志堂に捕らわれて使えないせいで、右手だけで外された志堂の袖鈕。
 彼の左手首に触れ、真頼は首を傾げて綺麗に微笑んだ。
「誰かに見せたら承知しない」
「……わかってるよ」
「触れるのも」
 思いのほか鋭い眼光に見据えられ、志堂は喜びを隠すのに苦労しなければならなくなる。
 どうやら真頼は、あの少女のことを気にしているようだった。
 疎い彼にしては、上出来な反応だ。
 真頼を傷つけるためだけに、あの少女とどうにかなってもいい気さえする。
「お前まさか、そちらの方がいいなんて、言わないだろう……?」
 するりと真頼は志堂の手首に視線を落とし、なぞる。
 真頼は潔癖だ。元来、ふれあいを好む性質ではない。それを、志堂には許可している。それがどういう意
味か考えろ―――、そう無言で真頼は迫る。
「……俺だって、お前だけなんだから」
 二人の左手首に残る傷痕は、共有する罪の証だ。それは互いへの罪悪感とともに、後ろ暗い悦びを彼ら
に与えた。
 核心から目を覆い隠している限り、永遠を錯覚させ、双方を縛り続ける鎖。
 これは誰にも知らせることのない、秘密だ。
 だがそれは二人の、関係が変わることを思わせ振りなことをしながらも、頑なに拒む。
 自分から近づくのはいいくせに、志堂がそうするのを真頼は許さないのだ。
「見るのも、触るのも、……お前にしか赦してない」
 静かに真頼は囁いた。
「……まるで魔性の女だな」
 志堂は呻いた。
 たった一言で、真頼は志堂にすべての覚悟を決めさせる。
 かつて、彼が真頼のために手首を切った日のように。
 志堂がなじると、
「――臆病なだけだ」
 やはり綺麗な顔で真頼はわらった。
「絶対に失いたくはないんだよ」
 その言葉を聞いた刹那、触れていた手首を志堂は強く引いた。あっけなく倒れてくる華奢な躯を抱き止め
て、志堂は顔を傾ける。
 おののいて息をのむ気配が伝わった。
「……紺、限界だ」
 掠れ、色の滲む声で志堂は懇願した。
 踏み込んできた志堂から、真頼はまた逃れるだろうか。
 だが志堂は決して、真頼に飼いならされたやさしいペットではなかった。

 首輪をつけただけで、獣がその本性を失ったと思うのは間違いだ、真頼。

 ――――逃がさない。

 理由がそんなものであるならば。
 手に入れたあとで考えさせてくれと祈るような気持ちで志堂は思った。

 自分達はまだなにも――、あの日に縫い止められたまま、まだなにも始めていやしないのだから。




   
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