||   罪の行方   ||

〜前編〜


「試合、お疲れさん、真頼」
 大丈夫か? ペットボトルを差し出され、しゃがみこんでいた真頼はのろりと隣に目をやった。日差しを遮
るように、幼馴染の志堂がそこには立っている。
 荒い息をついている真頼は、声が出せないままペットボトルを受け取った。蓋は既に緩められていて、指
先に力が入らない今はありがたい。そのよくできた気遣いに、一抹の苛立たしさは覚えたものの。
「まだあちぃもんなー、ちゃんと水分摂っとけよ」
 ばたばたと胸元を扇ぐ志堂は、言葉通り随分とジャージを着崩していた。
 ほぼファスナーを全開にし、腕まくりまでしている。しかしそれは片腕だけで、左手だけはきっちりと袖を
下ろしていた。そんな珍妙な格好をしていても素材がいいせいかあまり変には見えないが、そこまでする
なら脱げばいいのにと呆れられそうな着こなしではあった。けれど彼が決して上着を脱ぐことはないと、真
頼は知っていた。そして、自分も。
 半分ほどを一気に飲み干して、肩に掛けていたタオルで真頼は口元を拭った。
「ありがとう、返す」
 やっと声が出せるようになり、真頼は残りを志堂に渡した。
「おう、こんなとこにいないでさっさとちゃんと日陰で休めよ。お前、暑苦しい格好してんだから」
「わかってる、志堂、心配性だな」
 真頼は苦笑した。
 口煩いと言えばそうだが、時にはその忠告も心地いい。
 真頼はまだ秋の始め、まだ夏といってもいい気候にもかかわらず、上下とも長袖のジャージを身につけて
いた。志堂のようにだらしなく着崩すでもなく、きっちりとした格好をしているため暑さもひどいものだ。
 学校には日焼けのしやすい体質で、肌の露出を禁じられていると話してある。
 本当は、嘘だ。
 醜い傷跡が、左手首に深く残っているからだ。
 お互いの身体に遺したそれを隠すために、二人は長袖以外を着ない。
「顔が真っ赤じゃねえか。体力もねえし、疲れてんだろ」
 促され、真頼はゆっくりと立ち上がった。高い位置から見下ろす眼差しは、真頼が命令を聞かなければ抱
えるぞ、と言わんばかりのものだった。人前でそんなことをされてはあとでなんと噂されるか、たまったもの
ではない。
 先導する志堂の背に、真頼はぶつぶつと文句を投げつけた。
「お前だって、疲れているんじゃないのか。フルでなんでもかんでも出ているだろう。俺の心配をする前に、
お前はどうなんだ。ちゃんと水分を摂ったのか? 汗びっしょりじゃないか」
「ちゃんと摂るって」
 志堂は苦笑しつつ、真頼から寄越されたペットボトルを振って見せた。ちゃぽん、と中の水が踊って、光
を反射する。真頼は少し、目を細めた。
「……その前に、汗も拭け。びちょびちょじゃないか。替えは持ってきてないのか?」
「覚えてない。探さなきゃわからんな。ここにはない」
「持ってきてやろうか」
「いい、あるかどうかも分かんねえからな。お前を休ませるほうが先」
「重病人みたいに言うなよ」
 真頼は唇を尖らせた。人より少し体力がないだけで、何も身体が弱いというわけではないのに。
 連れてこられた体育館裏は、意外にも人はいなかった。それぞれみな、参加している試合か応援に夢中
になっているということか。上位に入れば賞金やら景品やらがかかっていると聞くから、尚更か。今日は全
学年合同の球技大会が行われていた。今しがた真頼もサッカーに出場してきたところで、相手チームの志
堂に負けたばかりだった。
 なんでも器用にこなす男だ、と半ば呆れて真頼は志堂を見る。
 どかりと冷えた階段に腰を下ろして、志堂は真頼に座れ、と隣を叩く。真頼は素直にそれに従った。
「あー、気持ちいい、風通るな、ここ」
「そうだな、でも冷えすぎるといけない。汗を拭けと言っただろ」
 んー……、と気のない返事をした志堂は、不意にその頬に企むような笑みを乗せた。真頼の背筋を嫌な
予感が駆けていく。
「じゃあ真頼、お前が頭拭いて」
 真頼は顔を歪めた。
「冗談じゃない。なんで俺がそんなことしなきゃなんないんだ。自分でしろよ」
「疲れてんだ」
「俺だって疲れてる」
「わざわざシャツ取りに行ってくれようとしたくせに」
「それとこれとは話が別だろう」
 口調が焦る。さっさと話題を切って捨てようとする真頼だったが、志堂はいつものようにそう簡単には赦さ
なかった。同じだろ、と言った志堂は、目線を幼なじみに合わせ、口角を上げる。
「同じだ、真頼」
 真頼は急いで目を逸らした。こういうときの、志堂は苦手だ。どう接すればいいのかわからない。こうなっ
た志堂に、真頼は逆らえた試しがなかった。離れようと座る位置をずらそうとしたが、男は一気に距離を詰
めてくる。がばりと抱きつかれ、真頼は肩を跳ねさせた。
「ちょっと、やめ、――志堂! 人に見られたらどうする!?」
「人なんてそう来ねえって」
「何を根拠にそんなことを言ってるんだ! 休憩に来る人がいるかもしれない! 俺たちみたいに!」
 それに、と真頼は志堂の胸を押し返す。自分の薄い胸とは違う、厚みのある硬い感触が、手のひらにぴ
りぴりとした刺激を残した。
 頭が真っ白になりそうになって、でもかろうじて踏みとどまる。体育館の中では、人のざわめく声が聞こえ
てきていた。どん、とボールをつく音。次の競技の準備が始まっているのだろう。人がこんなに近くにいる。
そう思うだけで真頼の身体は強ばる。
「なあぁ、真頼ぃ」
「気色の悪い声を出すな! 甘えるな!」
「真頼ー」
「汗臭い!」
「俺の匂いなんだから、好きだろ?」
「っ馬鹿言うな!」
 べた、と引っ付いてくる男の腕の力が強く、真頼は振り払うことができない。しばらくもがいてみたが拘束
は強まるばかりで、諦めた真頼は抱き込まれたまま、意地悪く志堂を睨めつけた。
「お前、このあとも競技に出るんじゃないのか。このままだと遅れるだろう。わがままなことを言うな」
 にっ、と楽しげに志堂は笑う。
「うん、そうなんだよな。遅れそうなんだよな。もしそうなったら、誰かが俺を呼びに来る。このままいくと、抱
き合ってるのを見られるぞ」
「お前が一方的に抱きついてるんじゃないか! 俺は!」
「んー、でも、お前の嫌いな『誤解』はされるかもな?」
 それとも本当はされたいのか? と訊ねるおもしろがったような声音に、まさか、心底嫌だという感情を隠
しもせずに真頼は答える。
「そこまで嫌がるこたねえだろ。髪拭いてくれるだけでいいっつってんのに。何もえろいことしようってんじゃ
ねぇんだから」
「そんなこと言い出したら、一生お前を軽蔑してやる」
「なんだよ、健全な男の子の思考だろー?」
「もう、黙れ! 拭いてやるから!」
 抑え込んだ声音で叫ぶと、嬉しげに志堂は笑う。やった、とはしゃぐ男の首からタオルを奪い取り、がしが
しと濡れた髪を拭った。
 何が健全な男の子、だ。そうしながら真頼は呟く。肉食獣のような雄の眼で、真頼のことを見るくせに。男
の子などという、生易しいものではない。あれは完全に、捕食者の眼だ。子どものように、無邪気な声も出
せるくせに。――油断していると、つけ込まれる。



       
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