||   罪の名残   ||

〜前編〜


 真頼紺さなよりこんが隣の組の教室に顔を覗かせたとき、探していた友人は窓際で数人の女子生徒との会話に花を咲かせ
ていた。
 いつもながら、楽しげなことだ。
 真頼は目を眇め、目の前の青年をねめつけた。自分から迎えに来いと言ったくせに、のんびり談笑とはなんとも
いいご身分である。
 気分をひどく損ねた彼は、友人を置いて先に帰宅することにした。
 あとでせいぜい焦ればいい。
 ひどく意地の悪い気持になって真頼は毒づくと、声をかけることはせずに踵を返した。
「真頼」
 その背に声が掛けられたのはすぐだった。
「置いていくなよ」
 からかいの混じった声音だった。それは。
 焦燥など見られない口調は、彼にとって真頼の行動が予想通りだったことを想起させるには十分だ。
 もしかすると真頼が教室に入ってきたときから、彼は幼馴染の訪れに気付いていたのかもしれない。
 咄嗟に膨れ上がった感情を無理やりに抑え込み、真頼は一度深呼吸をして振り返った。いつもの冷静が、装え
ていることを願いながら。
志堂しどう、」
 来い来い、と手招かれるのを無視したい衝動に駆られながら、それでも足は彼のもとに向かっていた。
「帰らないのか?」
 嫌味にならないように苦労しながら、真頼は言葉を紡ぐ。黒板の上に掛けられた時計は既に六時を過ぎていた。
課外も終わったというのに、勉学以外の目的で受験生がいつまでも教室に残っているのは好ましくないだろう。
「もう少しいいだろ?」
 気にした様子もなく笑いながら、志堂は真頼を自身の横に引っ張りこんだ。
 まったく、無神経な男。
「お前にも関係あることなんだからさ」
「どういうことだ」
「だから、ね」
 志堂のシャツの袖を小さく摘む、少女の姿を真頼は目ざとく見つけてしまった。志堂は気付いているくせに好きに
させている。
 こんなことをいちいち気にする自分に、真頼はうんざりする。
 小首を傾げて、上目づかい。訊ねてくる少女は小柄な自身と上背のある志堂との身長差をよく理解している。
 鈍感だと志堂によく指摘される真頼にも、彼女の意図は明白だった。
「どうしてずっと長袖なの?」
 その質問に志堂も真頼も、いつも笑って答えない。
 真夏のこの時期ですら頑なに肌を人目に触れないようにしている二人は、女の子でもなければいささか異質だ。
 色白で細身の真頼ともなればそれほど違和感は付きまとわないが、逆に体格のいい志堂などは奇怪にしか映
らない。長袖を着ていなければならないほど、繊細には見えないのだ。
「夏なのに、絶対半袖着ないよね。志堂君もだけど、真頼君も。体育も絶対ジャージ脱がないし」
 沈黙を返す志堂に、まさか答える気なのかと真頼は肩をこわばらせた。
「……さて、ね」
 思わせぶりなことを言いながら、横目で志堂は真頼を伺った。真頼が志堂の対応の仕方を気にしているのは一
目瞭然だ。それが志堂以外の他者にはわからずとも。
「日焼けが気になるんだよな。俺も、――真頼も」
 ふわりと真頼の気配が和む。慌ててすぐに取り繕ったようだったが、その限りなく短い時間でも志堂には事足り
た。
「やだ、まじめに答えてよ」
 きゃらきゃらと声を上げる少女たちと一緒に笑ってみせながらちらりと志堂が流し眼を送れば、視線に気づいた真
頼はそ知らぬ風で彼の右足を踏んだ。
「っ! ――……?」
 予想に反し、やわい痺れが足元から志堂を捉えた。反射的に頬をゆがめようとした志堂はおやと目を瞬かせる。
 どうやら真頼は手加減をしてくれていたようだ。済ました顔に似合わず、随分と甘えた真似をしてくれる。
 可愛らしい拗ね方だ。
 こんな気を許した行為を真頼がするのは、唯一志堂に対してだけだった。
「……真頼、」
 おそらく目の前の少女たちには聞こえまい、熱の滲んだ声音で低く呼ばうと、さっと真頼の目元に朱がはしった。
もともと白い肌であるから、変化は如実に表れる。
 それに志堂が密やかな満足を覚えていることを、彼は知っているだろうか。
 気をよくした志堂は真頼の左手首に指を伸ばした。一瞬、逃げるようなそぶりを見せたので、それよりも早く彼を
捕らえる。一度捕まえてしまうと真頼はおとなしいものだ。実際、真頼の側でもそうなることを望んでいるのだから。
 にこやかに談笑しているそば、背後で繋がれた手。背徳感に背筋が震えた。
 かたくなに閉められた袖の釦を暴き、素肌を晒してやりたい情動を皮膚の下で志堂は耐える。
 自分だけのものを衆人に与えてやれるほど、彼は優しくないつもりだった。
 それを目にするのはたった一人で充分だ。
「秘密だ」
 はっと真頼が我に返ったことが、指先を通して伝わってくる。簡単に志堂だけ意識を持っていかれる真頼が、志
堂には面白くて仕方がない。今度は耳まで羞恥に染めた彼を、どうからかうべきかと志堂はくつりと口内で嗤いを
噛み殺した。
 たわむれにシャツの下に指を滑り込ませひんやりとした手首を撫でると、睨み上げてくる視線が強い。
 志堂! 怒鳴ってくる瞳に確信をもって笑みを返した。
 それでも手を振り払われようとした手をきつく握れば、おとなしくなるのは無言の同意と都合よく解釈する。
 実際は変に抵抗して逆にばれてしまうのを恐れたせいかもしれないが。妙なところで真頼は常識人だった。
そんな常識にいつまでもこだわっている真頼が、志堂には歯痒くてしかたがない。
「んじゃ、俺らはもう帰るな。行こうぜ、真頼」
 現実で怒りの声を聞く前に、志堂は真頼の腕を引いた。
 もう帰るの? 口々に言う少女たちに、志堂は申し訳ない素振りだけを見せた。
 袖を掴んでいた少女の手は離れるとき、かすかな抵抗を志堂の腕に残した。だが志堂には、彼女の手は触れて
いても拘束力などない。
 左端の一番後ろ、語らっていた場所の目の前にある彼の机から志堂は鞄を拾い上げた。



   
inserted by FC2 system