||  The first world and you are unnecessary  ||






九話


「あの人が――王族……?」
 分からなかった、男の中に流れるベゼルは今まで一度もモモセが感じたことのないもので、勝手に貴族なのだ
と思い込んでいたのだ。それが、王族。そんな高貴な人がモモセに触れた、汚らわしい、不可触民に。
「本当に、あの人は王族なんですか」
 喘ぎが洩れる、モモセは目の前を霞ませながら訊ねた。
「なんだ、お前。そんなことも知らずに補佐になろうとしてたのか」
 肯定、返ってきたのは肯定だ。目の前が真っ暗になるのを感じた。
 貴族だったらまだウルドの厚意を受け入れられたというわけじゃない。ただ王族だ、国を治める一族、もしかする
と王になるかもしれない人、彼の身体は彼だけのものではなく、彼の意思で穢れていいものでもまたない。
 どうしてそんな人が、こんな卑しい仔どもを拾ったんだ。
 罪だと、モモセは感じた。あの人に自身を触れさせる、これはもはや、罪だ。
 そんなとき、足音と共に聞こえてきたのは、今最も聞きたくない声だった。
「――モモセ!」
 低い韻律、ウルドの声。カルシスとその下僕、そしてヒタキを映した瞳が、最終的にモモセに向けられる。
 モモセは反射的に後ずさった。
 いつものことだ、気にした様子もなくウルドはモモセの手首を掴むと広い胸の中に抱き込む。
 そうして男は安心したように息をつき、モモセに訊くのだ。
「モモセ、大丈夫だったか?」
「離――っして!」
 この彼の腕の感触を、匂いを、知っていいモモセではない、その権利はない。最初からそんなことは明らかだっ
た、なのに改めて突きつけられる、その事実が痛い。
 涙が眦を伝い、廊下に落ちる、ひとつふたつ。このまま泣き続けて躯を枯らして、そのまま死んでしまえたら。
 あなたに逢ってたった五日だ。それなのに、そのたったそれだけの時間でおれはこんなに泣き虫になった。今ま
でこのように泣くことなどなかった。他人の体温など知らなかったから。もしそのまま知らずにいられたら、モモセ
はどれだけ、平穏でいられただろう。
 それが責任転嫁だと気づいている、けれどモモセは思わずにはいられなかった。理不尽に男を詰って、その罪
悪感に首を吊れたらと心底考えた。
 なのに、モモセをその罪悪感に駆り立てるのがウルドなのに、逃げることを赦さないのもまたウルドなのだ。
「モモセ、どうした? 泣かなくていい、家に帰ろう」
 反射的にモモセは首を振っていた。困惑した声で、ウルドがまたモモセ、と疑問調で呼ぶ。
「行かない」
 帰らない、ではない。行かない、だ。あそこは決して、モモセの帰る場所ではない。涙に濡れた声でモモセは慟
哭した。
「じゃあどうするんだ」
「スラムに帰る……!」
 帰りたい、帰らせて。
 孤独に、生に執着することだけが唯一だったあの場所。
 他に何も考えずに生きていけたことは、少なくともモモセにとっての不幸ではなかった。
 幸せだったか、と訊かれると是とは言えない。
 けれど、そこでなら、生きていける。
「帰りたい……」
 顔を覆った手は濡れて、嗚咽に痙攣する喉が痛む。
 スラムに、
 でも、それをウルドが許すはずもないことをモモセはもう知っていた。
 この願いはすでに一度切り捨てられている。
 案の定、ウルドはにべもなくモモセの望みを断ち切った。
「それは、駄目だと言ったはずだ」
 責めるような声にモモセは懸命に考えた。どこかに、ウルドと離れられる方法があるのではないか。そしてふと
思い出す。ヒタキが口にしていたこと。それにあらん限りの力で縋る。
「おれ、寮に入る……っ」
 寮には入ればウルドとの繋がりは切れる。援助は全て学校負担だ。少なくとも学校にいれば、モモセに目を掛
けてくれた彼に、報いたことにもなるはずだった。
 涙の膜の向こうにいるウルドは、苦しげに顔を歪めていた。ヒタキとの会話が脳裏をよぎった。
「――それが、お前の願いか」
 モモセは顎を引き、頷いた。
 そうか、低い声で男は呟く。「……そうまでして俺から離れたいか」
 モモセは目を見開いた。
 不意に腕を引かれ、気づけばそのままきつくきつく、モモセは抱きしめられていた。人目が、あがこうとしても、
軍人の力にモモセがかなうはずもない。身を屈めた男の顔が首筋に埋まり、吐息が掛かる。モモセは躯を震わせた。
いやだと、主張しているような抱擁は幻だと必死に言い聞かせた。
「――お前の、望むように」
 囁く声はひどく切なかった。






       
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