||  The first world and you are unnecessary  ||






一話

 モモセは馬車に乗せられる。手はようやく離され、モモセは男のぬくもりが失われたことへの、自身の意思に
反した落胆を防ぐためにもう一度、わかっている、と呟かねばならなかった。
 二人は向かい合って座っている。
 馬は斑馬まだらばという種類だった。名の通り、茶色の身体に黒の斑点が散っている。斑馬には人型のものもあるが、
こいつらはそうではないため意志疎通は不可能だ。
 馬車の乗り心地は悪くなかった。御者と背中合わせになる形でウルドが、モモセは進行方向と同じ向きに腰を
落ち着ける。馬車の中は当然のことながらウルドの部屋の中よりも狭く落ちつける場所だったが、膝を突き合わ
せて座っているこの閉塞感というのもそれはそれでモモセを息苦しくさせた。
 降りしきる沈黙に、モモセは密かに息を吐き出す。
 こういった空間はどうしても、静かにしていなければいけないといった意識が先に立つ。モモセは落ちつきなく
視線を彷徨わせた。ウルドは座席に浅く腰かけ、左手の小さな窓から外を見ている。
 けれど。
「ああ、なぁ、モモセ。ひとつ聞いてなかったんだが」
「――何ですか」
 小石にでも乗り上げたのか、がたんっと馬車が跳ねた。ウルドはまだ外を眺めているように見えたが、その眼
差しはおそらく景色に投じられたものではない。散漫な視線は外にあるものの、意識はずっと自分に向けられて
いることにモモセは気づいていた。このああ、は絶対にタイミングをはかって言われたものだ。わかっていたのに、
さりげなく返答することは出来ずに思いきり警戒した声が洩れていた。
「いや、お前、軍人にならんかと思ってな」
 モモセの態度に、そんなに身構えるなよ、とウルドは失笑する。
 大したことではないんだから。
「……」
 モモセは男の顔を凝視した。ウルドは苦笑してようやくモモセを視界に入れる。代わりにモモセは目を足元に
落としていた。男と目を合わせたくなくて。
 返答を待つように、ウルドは黙ったままだった。
 ようやく、声を絞り出した。
「あなたは、おれを甘やかしすぎてる」
「そんなつもりはないが」
 よどみない否定は肯定を含んで笑う。
「お前が望んでくれるなら、ベゼルを制御して、環を得たら出来たら軍人になれよ。俺の補佐につけばいい。隣
はいつでも空いてる」
 ウルドは自らの傍らを指示した。
 空いた席。
 そこに立つ資格がモモセにあると一点の曇りもなく心の底から、この人は思っているのだろうか。
 軍人は階級制度の外にある。奴隷身分であってもベゼルを扱うことができれば軍人になる資格は十分にあっ
た。けれどモモセは不可触民だ。不可触民が軍人になってはいけないという文言はどこにもないが、それは暗
黙の了解というものではないのか。
 ……ああ、この人はこともなげに言うけれど。
 補佐がいる役職であるからには、ウルドはそれなりの地位にいる。その立場に見合った選択が、どうしたって
必要なのだ。
 仕事を道楽と一緒にされるようでは、たまらない。
「馬鹿とか言うなよ、おかしいとかな」
 目を眇めるウルドにモモセは胸を衝かれ、けれど顔を歪めて吐き出した。
「――おかしいです」
 モモセ、そう言うウルドの声音は完全に幼い子どもを咎めるときのそれだ。モモセは聞かない振りをして、耳を
しっかりと伏せた。
 頑なな態度にウルドは吐息する。意図的に変えられた口調がモモセを掻き乱した。
「モモセ、俺はな。できる限りお前と、一緒にいたいだけだよ」
 だからそれが、間違っているのだ。
 何気なく。けれどそれがどれだけモモセの中で重く響くのか、男は知っているのだろうか。モモセは浅い呼吸
を繰り返す。
「……だったら命令すればいい。そうすればおれは従えるのに」
「従順な奴隷が欲しかったわけじゃない」
一際大きな音を立てて、馬車が跳ねた。ウルドはそれに合わせて立ち上がり、モモセの方へと身体を寄せた。
 ただでさえ暗い車内に、一層影が落ちる。ウルドの右膝は座席の上。角に固定されたモモセの躯。ウルドは大
腿を跨ぐ形でいるため、身動きはとれない。突っ張ろうとした腕は胸の前で、不自然に固定するにとどまった。
「お前は好きなことをすればいい。軍人になるのが嫌ならそれでも構わん。奴隷として扱う気はない、
 ……不可触民として扱う気も」
 頬に手が添えられる。逸らしたままだった視線が、その行為で交わった。こわばったモモセを慰めるように、
男は二、三度頭を叩く。
 けれど止める気配はない。
 熱を内包して掠れた低音は、お互いの吐息が交わせるほど近くで囁かれた。
「……早く俺に慣れな」
 男の部屋でも言われた言葉。
 モモセはキツく目を瞑った。耐えきれなかった。
 あなたは何度おれを壊す気なんだ、叫びたくてもきっと言葉は封じ込まれた、モモセはうわずった呼吸を繰り
返すことしかできなかった。





       
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