||  Adult is sly ,and pretend gentle  ||






三話



 それから更に数日が経った。
 今日も広い部屋にウルドと二人きり。言葉を交わして、モモセに浸食するのは彼だけだった。男は必要最低限
の使用人以外、屋敷に人を置いていないようだった。
 耳を立てて遠くの音を伺っても、人の気配は希薄だ。
 ウルドはモモセを部屋の外へは出さない。男に飼われてからの今までのあいだ、彼以外の人間を見たこともな
い。そのうち飼殺されるのかもしれない、という意識が頭をもたげる。
 だから?
 結局モモセはそこで思考を停止させた。
 それはそれで、仕方のない話なのだろう。
 何の権利もない、不可触民ならば。
 つらつらとどうでもいいことのように考えるのは、自身の一生だった。
 ウルドの部屋の鍵が開いていて、モモセの脚に枷が嵌められていなくても、到底逃げ出せはしなかった。それ
だけの支配力が、男にはあったから。
 ただ、心臓の下で燻る焦燥はあった。
 それはベゼルを封じられているときに感じたような、閉塞感だった。
 今さら外に出たいとは思わない。ウルドとのどこかどろどろとした歪な関係は、肌に深く刻まれていく現実だ。
 しかしこうして足腰が立たなくなっていくのは恐怖だと、蓋をされた思考が叫ぶような、気がした。
 だんだん自身が希薄になるような――――実感。
「モモセ、」
 思考の海に沈み込む仔どもに、やさしい声がかけられる。
 今やモモセを殺すのもウルドであれば、生かすものウルドだけだった。
 明るく名前を呼ばれ、思考にようやく鮮やかな色がつく。
 しかし続けて言われたこと、新たに提示された問題に、モモセは引っ掻きまわすだけひとの心を引っ掻きまわ
して――、と憤りを覚える暇も与えられなかった。
 ただ心のどこかで、まだ機能する精神にほっと安堵する。どこかでまだ抵抗しているのだろうか。男のもので
あることを。
「モモセ、毛、染めるか」
 ウルドは髪を梳り、軽い口調でそう言った。
「、へ、は――!?」
 混乱するしかなかった。それだけ衝撃だった。出てきたのは意味を成さない喃語のほかなかった。
 銀糸の毛はモモセの唯一の誇りである。<神の血統>しか持たない銀糸。それが不可触民だと自分を卑下
していたモモセのたったひとつの拠り所であったことくらい、容易く想像がつくはずであった。
 それをいともあっさりと、染めろ、などと。否(いや)、疑問調であったことなどこの際棚上げである。あれは
限りなく決定事項に近かった、とモモセは涙目になりながら心中で断言した。
「や、やです! それだけは嫌です! 何で、そんな、染めるなんて――」
 男の手から髪を取り返し、絶対に手が届くはずもない距離を取ってから、モモセは涙で濁る視界を精いっぱい
凝らしてウルドを睨んだ。そうしてしまってまた、モモセは自分の態度を省みてぞっとするのだったが、先日のよ
うにウルドは警戒心たっぷりのモモセに冷徹さを見せることはなかった。彼としてもモモセの反応を予期してい
たのだろう。手始めに、彼はモモセの反抗が最もであると肯定した。
「だっ、たら、何で、」
 良心に訴えるように、モモセの声は悲痛に掠れたものだった。しかし最初に自身の心情を認められたことで、
モモセに譲歩という感情が芽生えたのも事実である。ウルドはその隙を逃さずに語句を重ねた。
「俺はここ数日、休暇を取っていた」
 ここで、前述と関係のないことを言うのが、ポイントだった。とはいえ本当に関係のないことを言ってしまっ
ても意味がない。結果としては後述に繋がるのだが、この段階においては分からないままにさせておくことが重
要である。
「――は、い」
 そうすればこうして不審げにしながらも、モモセは相槌を打たざるをえなくなる。
「もうしばらく一緒にいてやりたいのは山々だが、そこまで俺も暇な役職についているわけじゃない」
「――はい」
「お前をひとりにしておくには忍びないと思ったわけだ」
「――――はい」
 全てはお前のためだ、そのために俺は努力した、それをさりげなく示す。物腰はあくまで柔らかに、あからさま
に自分の尽力をアピールしては逆効果だ。
「そこで、だな。学校に行ってはどうかと。ベゼルを安定させる必要性もあるしな」
「、がっ、こう?」
 慣れない言葉を聞いたと言いたげに、モモセはつたなく発音する。
「そう、学校だ」
 断言に、モモセはうろうろと視線を彷徨わせた。神世の言語どころか、公用語ですらモモセは読み書きができ
ない。学校という提案はひどく魅力的だった。自由に、好きなだけ学べるその場所はスラムに住む者にとって憧
れだ。ウルドはそのことを知っていたのだろうか。
 モモセの白いはずの頬はうっすらと紅潮している。ふたつの尾が、嬉しさを抑えかねてはたはたと交互に地面
を叩いた。モモセは既に傾いている。落とすためにはあといくらもかからない。そうウルドは確信し、かと思うと、
モモセは肩を落とした。
「だめ、です。おれは不可触民です。そんな、身分的にも、おかしいし、もし触ってしまったりしたら」
「大丈夫だ」
 力強い断言に、けれどモモセは頑なに首を振った。
「そんなわけない」
「大丈夫だ。お前が気にしないようにすれば、誰もお前が不可触民だとは気づかない」
「だって毛と目の色が違う――。それに、ベゼル、も」
 そこまで言ったときに、モモセはようやくこの話と先ほどの話との間の関連性に気付いたようだった。
「学校、行きたいだろう?」
 そこは勝者の確信を持って、ウルドは殊更ゆっくりと訊ねる。
「、行きたい、です」
 モモセは否定しなかった。ウルドが自分を虐めるために言っているわけではないことも、ちゃんとやり取りの間
に理解させられていたことが功を奏したのだろう。
「ベゼルのことも心配するな。お前が知らないだけで、ごまかす方法はいくらもあるさ」
 ぱあ、とモモセは華やいだ表情を見せた。ここに来てからおそらく初めてといえるだろう、無邪気な顔。
 カナンもそうだった、とウルドは心中でひとりごちた。
 獣種は自然を、自由であることを愛する。
 囲えば必ず壊れてしまう。
 たった数日間ですら自由に振る舞えないモモセが、かつてのカナンのようにゆるゆると深い微睡の中に落ち込
んでいこうとするのが、手に取るように伝わってきた。
 自分だけでは足りない。
 手元に縛り付け、モモセを殺してしまいたいわけではなかった。
 焦りが募り、導き出した結果が学校だった。仔どもの表情に覇気が戻ったのがウルドには何よりの僥倖だ。
 そのはずだ。
 自分はちゃんとモモセを想えている。
「――染めるか」
「落ちやすい、やつが」
「好きにしたらいい」
 それがモモセの譲歩したなりの譲れない箇所だというのは理解できたので、ウルドは取り立てて異議を述べた
りはしなかった。
 立ち上がって、ウルドはモモセの手を取った。モモセがあまりにも怯えるため、早い段階から着せるのは長袖
の、それもかなり袖の余るものだ。にも拘らず一回りか、もしかしたら二回りも小さなモモセの手はウルドの掌の
中で跳ね、ウルドが軽くしか握っていないのをいいことに男を振り払っていた。
 譲歩、否、譲歩と呼ぶものかすら曖昧だが、俺のそれは報われない、とウルドは嘆きながら、浴室へ続く扉を
開けた。




       


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