||  Child on whom price is not set  ||






六話

 ――――――カナン

 音にはならなかった声が言葉を落とす。モモセは多分、そう言ったのだろうと推測できた程度だ。人の名前だ
ろうか、誰だろう――そんなことを思う暇すら与えられずに、気づけばモモセは攫うようにして、男の腕の中に閉
じ込められていた。小柄なモモセはすっぽりと男に納まる。
モモセが現実と認識できたのは、男の腕力があまりに強かったせいだ。二尾がぼわりと膨れ上がった。
 抱きしめられてる。
 理解した途端濃度の高い恐怖がモモセを襲った。
 あっていいことではない。貴族ともあろう人が、たとえ直接手を触れてはおらずとも奴隷以下の不可触民を抱
き寄せて、その腕の中で囲うなんて。
「離ッ」
 逃れようとするモモセに、ますます腕の力が強まった。
「やっと、見つけた」
 掠れた声が、安堵に湿って呟く。
「やっと……」
 男を振り払おうとしていたモモセは、それ以上行動が起こせなかった。あまりにもいとおしげに、男がモモセ
を抱きしめるからだ。
 やがて腕は背中から離され、硬いたこのある長い指がモモセの輪郭を辿った。何度も、慈しむように。男の手
はもうゆるりと腰にあてがわれているだけなのに、モモセはまだ固まったままだった。布越しのくせに触れられ
た箇所が熱を持つ気がして、伏せた耳の毛が細かく震えた。
 顎を掬われ、真っ直ぐに黒曜の瞳を覗きこまれる。逸らせなかった。
「……お前、名は?」
「……――モモセ、」
 呆然としながら、半ば無意識に自身の名を奏上する。やわらかな光を湛えた瞳がゆっくりと笑った。
「いい名だ。俺はウルド。――やっと、逢えたな」
「ウル、ド……?」
 散らばった思考のまま、舌ったらずに訊ねる。
「そう。一緒に帰るぞ」
「帰……?」
 みなまで言い切る前にぐいと身体を引き寄せられ、全身に浮遊感が広がった。モモセはいきなり上がった目
線の高さと安定感のなさにようやっと夢見心地から脱し頬をひきつらせたが、目の前の首にすがりつくことも出
来ずただ落ちないよう大人しくするしかない。
 不意にウルドはモモセの手に触れた。
『展開――消滅』
 そして呟かれるのは耳慣れない詞だ。そう言えば似た言葉をホヅミが言っていた、そう思う間に身体の気を
塞ぐ不快が取り除かれる。ベゼル封じの枷が外されたのだ。我慢できず、モモセはくったりとウルドの肩に額
をつけた。ほう、と深く脱力した声が喉の奥から漏れる。
「大丈夫だ、」
 あやすように軽くモモセの背を叩くと、ウルドは扉のほうへと足を向けた。
「もう何の心配もない」



       
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