||  Child on whom price is not set  ||






五話

 その男が現れたのは、モモセが目を覚ましてから体感で半刻ほどがたった頃だった。モモセは泥のような気だ
るさを持て余しながら、身体を床に預けていた。自分の所有物だとはとても思えないほど、あまりにも身体を起こ
しているのはつらかった。
 ついでに身体中の汗腺を塞がれたような不快もまた、身体の中には存在していた。どんな要因であったにせよ
とりあえずは緊張が取り除かれ、睡眠をとったのだから多少なり心身の働きは向上していてもよさそうなものだ
が、逆に悪化の一途を辿っている。まるでつま先からどんどん地中に引き込まれていくよう。
 モモセはだらしなく四肢を弛緩させて、極力動かないようにしていた。僅かでも動けば、それだけで強烈な不
快感が喉を突き上げた。
 それがベゼルを封じられたからだと申し訳なさそうに教えてくれたのは、クテイだった。目線だけをのろりと投
じてみれば、なるほど、ただの鉄製の手枷とは別に、モモセの両腕にはぼんやりと灰色の環が浮くもう一組の
手枷が新たに掛けられていた。
 ベゼルは生きていく上で最も大切なエネルギーだ。誰にせよ、どんなものにせよ、無機物であろうとベゼルは
その内を循環している。その流れが停滞させられる結果に待っているのは慢性的な死だった。
 ホヅミはモモセが覚醒したときに「研究所行きが決まった」とわざわざ言ってきたことから殺すつもりはないこ
とは判断できるため、恐らく先ほどのように暴走されてはたまらないということだろう。
 だがあれはモモセとしても予想外だった。マザリモノの不可触民である己が、環を出すことができるほど能力
に優れているとは思わなかった。二種類の異なるベゼルの波紋刻む不可触民は、基本的に純血種より能力が
低く産まれる。体内のベゼルすら制御できないため、現にモモセは完全な人型になったことすらなかったのであ
る。
 しかしそのことを告げたところで枷を外してもらえるなどと甘い考えを持っていたわけではないので、モモセは
そのままの状態で転がっていた。これからの自分のことを考えると果てしない絶望感に苛まれそうな気がした
ために、思考は常に中途半端な場所を漂流した。
 そうしているうちに、それまで壁に背を預けて煙草をふかしていたホヅミが、ふと腰を浮かせた。彼の足元に
 座っていたクテイも耳を立て、近づいてくる足音を追って閉じられた扉に視線を投じる。
 ややおいて、扉の上部に取り付けられている格子の窓から傍目に見ても分かるほど、焦った男の顔が覗いた。
「ホヅミさん。奴隷保護局の軍人が、」
 モモセに聞き取ることの出来たのはそこまでだった。必要以上に潜められた声が、獣の耳を持ってしても内容
の追及を赦さない。いつもは伏せられている耳を少しだけ持ちあげてみたけれど、吹かれてしまったのですぐに
諦めた。
 しかし、扉越しに告げられる言葉がホヅミにとってお世辞にも快いものではなかったであろうことは、見る間に
殺気を滾らせた背中から容易に想像がついた。
 話は短く、一方的に告げられることにホヅミは相槌を打つだけだった。男が立ち去るのに合わせて、彼もまた
出て行った。一度振り返るべくして振り返ったホヅミは、怒りを孕んだ眼差しを隠そうともせずにクテイに浴びせ
た。彼の咥えた煙草は噛み跡がつき、曲がっている。
 彼は一言も発さなかった。クテイはその憤りを受け、何か彼を怒らしめているのかちゃんと理解していたため
か目を逸らすことなく受け止めて、しかしモモセから見えるその横顔は哀しみをその皮膚の下に隠した歪んだ
笑みだった。
 ホヅミは乱暴に戸を閉めて出て行った。クテイはしばらくそちらを見つめ、ホヅミが残した煙の残滓が消える
頃に、ようやくモモセのほうを向いた。
「――大丈夫ですよ」
 やはりその顔は泣きたいくせに無理に取り繕った笑みだった。それが失敗していることはきっとクテイも分かっ
ていることだろう。尻尾も耳も、恐怖と哀しみとで震えているのに。
「もう、大丈夫ですよ」
 呟くようにクテイはそう言う。
 一体何が大丈夫、だと言うのか。憶測を働かせようにも材料が足りず、モモセは緩慢に瞬くに留めた。そう
する内に、未だ激情を抑えきれていない足音が、けたたましい音を立てて戻ってきた。戻ってきた、と思って
いた。
 勢いよく扉が開く。部屋の内側に押す形のものだったため、それは壁にぶち当たり、高音と低音の不快感
を催す音域を同時に奏でた。モモセの銀色の尻尾の毛が、驚きで逆立つ。
 立っていたのはホヅミではなく、見知らぬ男だった。先ほどとは違った感情で、身体中の毛がざわめいた。
 毛だけではない。血が、心が、彼を見つけて瞬間的に歓喜の声を上げる。モモセはどくどくと鳴る心臓の音
を、床伝いに聞いた。咥内が異常に乾き、モモセは涙目になって浅く喘いだ。彼を見つめて見開かれた瞳は、
今にも涙が零れ落ちそうだ。
「何やってやがる」
 巻き舌気味に台詞を発し、ホヅミが男の後ろから現れた。男は黙ったまま、返事をしない。
 時間が経ったからといってホヅミが機嫌を持ち直したかと見ればそうでもなく、むしろ悪化の一途を辿ったよ
うだ。片頬を歪めて彼は舌打ちした。しかし我がごとに懸命なモモセはホズミの一挙手一投足に気をやってい
るクテイのように、そのことを気にする余裕はなかった。
 男は軍人だった。感じたことのない波紋を彼の中に流れるベゼルは刻んでいて、モモセは何となく貴族階級
だろうと判断した。そして途方もなく強いということも感じ取り、疲弊しているモモセの獣の本能はあっけなく男
にひれ伏した。強い男にはいままでも出逢ったことがあったけれど、こんな風に屈服させられることを悦んでし
まったのは初めてだ。
 布一枚を衣服とする最下層のモモセらとは違い、男はきちんとした黒い上下揃いの服を纏っている。その服
には嫌というほど見覚えがあった。御手洗を引き起こす、軍人が着用する軍服。いつも高みからモモセらを見
下ろす人たち。大嫌いな奴ら。
 だけどこんなにも、満たされたような心地がするのはなぜ?
 彼は呆然とモモセを見ていた。引き結んだ唇が戦慄く。

 ――――――カナン



       
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