Because the child doesn't know anything 2
|| Because the child doesn't know anything ||
ベゼル。
既に身体が覚えていたのか、モモセは脊髄で命令を下し、先ほどよりも強く指先を払った。それはひたすらに
この場から逃れたいという思いばかりで、モモセにウルドを傷つけたいなどといった考えはこれっぽっちもない。
だがモモセの行動は自ずとそういった結果を導き出すものだった。
自然のものではない風が、ふわりと巻きあがる。
ウルドはその様子を見ても、大して気にした風でもなく小さく眉を跳ねるばかりだ。その上煽るかのように膝で
距離を縮める。その頬には何らかの意図が含まれた笑みが乗っていて、しかしモモセの許容量を大幅に超えた
事例はそうと認識させるまでには至らない。ただウルドが自分を脅かす、それだけだ。
「いやだ……っ! やだ……ッ!」
悲鳴と共に鮮烈な紅が暴風を伴って出現し、ウルドの前に立ちふさがった。男は今度こそはっきりと、面に笑
みを刷いて呟く。
神世の言語。
蒼い環が空間一杯に広がる。複雑に記された遠つ国の言語は、彼だけに赦された世界の理と彼を繋ぐものだ。
『展開――防御』
そうしながら彼はベッドのスプリングを利かせて背後へと飛び退った。壁に据え付けられたベッドと丁度差し向
かいである広い窓との間の空間に、ものは何もない。絵画も飾っていなければ家具もなく、殺風景な部屋だと言
えばそうだったが、この場合には幸いだった。ヴルドは床に降り立った瞬間に環を『鎖閉』した。
モモセの風の威力も長くは続かない。モモセは赦されていないからだ。
ウルドが環を閉じたとき、最後の一陣が彼の元に届き、左目の下を裂いた。彼は少しばかり痛みに顔を歪めた
ものの、それは計算の内だったために真顔を保つ。もうしばらくすると、モモセがウルドに気づき、男が怪我をした
ことを知るはずだった。モモセは一体、どんな感情をその愛らしい顔に浮かべて見せるだろう?
彼は流れ落ちる血の量が予想よりも多かったことだけが計算外だった、と一人ごちながら、顎に伝っていった血
を手の甲で拭った。
モモセが造りだした風にすでに勢いはなく、春風を思わせる穏やかさである。そのままウルドが見ていると、淡
く発光していた規則性のない文字とも模様ともつかない何かを描いた環はゆるく空間に溶け落ち、その向こうに
大きく肩で息をしたモモセが現れた。
憔悴した眼差しがのろりと動く。力の使い方を知らない仔どもが無茶をするので、こんな風に体力を根こそぎ奪
われるのだ。ベゼルはそうやすやすと使えるほど、簡単なシロモノではない。
華奢な身体がふらついて、ベッドに肘をつく。
何かを探るような視線を遣っているので、ウルドは一歩歩み寄ると声を掛けた。
「モモセ」
ぴくりと垂れた耳先が動いた。モモセはようやく焦点を得た視線をウルドに向ける。離れた場所に立っている男
を確認し、瞳がほっとしたように緩んだ。しかしウルドが傷を追っているのを認めるや、落ちる勢いでベッドから降
りると、まろびながら駆け寄ってきた。力尽きるほど体力を消耗してまで、稼いだ距離であったのに。
しかしこれこそが、ウルドの狙った展開だった。
口角が上がりそうになるのを、男は何とか押し止める。
「血が!」
先ほどとは違った意味合いで顔を青くしながら、モモセはウルドの目元に手を伸ばした。
「ごめんなさい、おれッ」
あなたを傷つけるつもりなんてなかった。
そんなつもりじゃなかった。
ただあなたみたいな綺麗な人が、おれみたいな動物に
「――――ッ、」
だからモモセの指がウルドに触れることはなかった。罪悪感のみで構成されていた意識のどこにそれを思い出
す隙間があったのか、寸前で止めたモモセは瞬時固まったあと、素早い動作でその手を背中に回した。そうして
瞳を歪めてウルドを見上げた。己のつけた傷が目の前にあるのに、その身体に根差す身分制度があるために彼
の血を拭ってやることすらできない、ジレンマ。
ほんの一瞬のことだが、モモセの脚が後退したそうに動いたのを見て、ウルドはそれよりも速くモモセの腰を捉
えた。
反射的に逃げを打とうとするのは最早クセよりも深く本能に染みついたものだろう。モモセが再び環を開こうと
するのを、今度ウルドは赦さなかった。恐怖を感じるや、身体がベゼルを使おうと動くのだろうが、それを無言の
内に阻む。
神世の言語を口にするまでもない。
未熟なモモセ程度なら、いくらでも押さえ込める技量が彼にはあった。
「そう何度も、好きにさせると思うな」
ひっそりと低く男は囁いた。