||  撞着する掌の崩壊  ||






序章



 彼女の周りでは、いつも時の流れが穏やかだった。
 王都から離れた深い森の中、彼女は僅かな使用人と共に暮らしていた。
 半ば軟禁に近い生活をしていたようだったが、人と獣の性情を併せ持つ彼女にとっては、森の中
で暮らせるというだけで十分に幸せだったのだろう。或いは、そのように見えていただけか。彼女は
微笑みを絶やさない生き物だった。
あんなことを言いだしたときでさえ、彼女は笑っていたのだ。
 初夏だった。緑が眩しかったので。背の低い草花のなかに座り、彼とその兄弟は彼女の正面にい
た。彼女の住む屋敷の前だけは、草木が綺麗に手入れされていたのだ。
 彼女は何の前触れもなく、こう言った。
「赤ちゃんがいるのよ」
 それは確かに幸福を象った顔だっただろうか。彼女が死んでから、既に十年近くになる。最早覚え
ていたはずの顔も朧だ。
「誰の仔?」
 そのとき彼は驚いて訊ねた。彼女はまだ若かった。そのお陰で仔を産む義務もないために、この屋
敷での逗留が認められていることを、彼は勿論知っていたのだ。
 彼女は内緒話でもするみたいに、彼ら二人のほうへ身を乗り出した。彼らのうちだれも、そのように
子どもじみた所作をする年齢ではなかったのだが、彼女に置いては妙にその仕草が似合っていた。
「貴方たちのお父様の仔」
 彼ははっとして彼女を見つめた。まだ少女と呼んでも差し支えないほど幼い面差し。だがそれも無
理はなく、彼女はたったの十五だった。
 父がそんな仔どもに手を出したことがショックだったのではないし、当然その父に対して幼い潔癖
が喚起されたわけでもない。
 父が彼らの母よりも彼女を大切にしていたことは周知の事実であったし、ある意味でそれは当り前
のことだった。父と彼女の仲のよさを言えば、それこそそのまま夫婦となってもおかしくないほどでは
あったが。しかしそれはどう転んでもあり得ないことだった。だから父の子と言われても、到底信じき
れるはずもなかったのだ。
 彼女は人間ではない、獣だ。獣なのだ。人に似通った姿をしているが、銀糸の髪から覗く垂れた耳
先は尖り、完全に動物のものである。そしてゆったりとした白いワンピースからは、はたりと重たげに
揺れる六尾が見えた。
<神の血統>などと呼ばれて神殿で手厚く保護されているが、能力が抜きんでて強いだけの一介の
獣だ。仔が為せるはずがない。人と獣だ。第一、あってはならないことである。
 仮に産まれたとしても、その仔どもは混血の忌児だ。この国は強固な階級制度で成り立っていて、
階級の違うものの間の子どもは両親の身分関係なしに最下層の、不可触民として扱われる。人として
の生活が保障されるかも定かではない。
「確かに貴女は父さんの選定者だった。けれど、それだけは、」「、ウルド」
 彼女は哀しげな声で彼を呼んだ。声だけはいつだって正直なヒトだった。
「私だって、恋くらいしたかった」
 思いかけない告白に、彼は息を呑んだ。まだ膨らみのない腹に手を当て、彼女はとつとつと言う。
「分かってる。あの人を王に選んだ後の私の役目は、強い雄と交わって強い仔を産むことなんだわ。
次王の貴方たちには悪いことをしたと思う。貴方たちの選定者は、きっと大した能力を持って産まれ
ない。
――でも、ねえ。協力してほしいのよ」
「何、に」
 少女は嗤う。
「産まれた仔どもはスラムに棄てるわ。だから。大きくなって、貴方たちが十分な地位を手にしたその
ときには、お願いよ。助けてあげて、この世界から守ってあげて」
 お願いよ――
 笑っているくせにどこまでも切実な声に、彼らは気圧されたように頷くしかなかった。ありがとう、そう
言う彼女は泣かなかった。
 本当は国や、彼ら自身のことを考えれば、仔どもは母胎にいるうちに殺してしまうべきだったが。愛
しい彼女の願いをどうして無下にできるだろう。
 そう思ってしまうくらいに、彼ははかない初恋の最中にいた。失恋の痛みよりも、彼女の願いを優先
するほどには、あわい。
 緩やかな檻の中、彼女は穏やかに時を刻んだ。お腹の仔どもを慈しむ様子を、彼は近くで見ていた。
しかしある時、仔どもは既に彼女の腹にはいなかった。生きた仔どもの姿は、誰一人として見ていない。
彼女は死んだと告げ、誰もがそれを信じた。父も、彼でさえも。仔が生きて産まれるには、産み月が随分
と早かったせいもある。仔どもを捜すことさえもしなかった。
 その翌年、彼女は慣例に従い同胞の雄との間に一男を設けた。
 それからだった。否、もとからだったのだろうか。
 ゆっくりゆっくり、彼女はまどろむように狂っていって。最後ははかなく死んでいった。
 遺した言葉は「西スラム街」。
 彼はその時ようやく仔どもが死んでいなかったことを悟った。
 そしてその一言は、その後永く約束を交わした青年を縛り付け。今では真夜中に目を覚まして飛び起
きるほど、強迫観念染みて彼の中に響いていた。



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