||  I am a living thing which kneels down to you  ||






四話



 ずいぶん歩いて連れて来られたのは、誰も使っていない空き教室だった。
 モモセは来たことのない教室だ。奥まった場所にあるので、あまり誰も近寄らないのかもしれない。着いたのは歩くにつれ人通りの
なくなってくる廊下に、モモセが暴れるよりも不安を覚えだしたころだった。
 突き当たりのその場所は、最初はただの壁だった。そこで二言三言、ウルドは『神世の言語』で呟いた。蒼の光とともに壁に顕現し
た環は、その壁を溶かし、先に小部屋を開いた。驚きに声を出せないでいるモモセに、ウルドは笑う。
「ここに通っていたころ、友人たちと造った――。……まだ誰も、見つけていなかったのは驚きだが」
 窓のない部屋ではあったが、その部屋はほの明るかった。内装は異国のアンティークで統一されており、見るからに高そうだ。ウル
ドが友人と言うからには、それなりに地位の人間たちだったのだろう。暗色で統一された家具の木材は時を経てもつやつやとした光沢
を放っている。
 モモセは二人がけの猫足のソファに下ろされた。ウルドはそれを立ったままで見下ろす。
「今のように静かに抱かれてくれているとありがたんだが」
「ッあなたがっ! おれに触ったりしなきゃ……っ、叫んだり、しません……っ!」
 何なのだ、一方的にこちらを情緒不安定だとでも言うように。
 モモセは不満をありありと浮かべた目でウルドを見た。疑問はたくさんあった。
「そもそもさっきは――、なんだったんですか。あの方は、誰ですか。なんで、逃げたんですか」
「質問が多いな」
 ウルドは目元を和ませたが、そのほとんどに答える気はないようだった。
「俺の遭いたくない女性だ。彼女と遭うと面倒が多い。だから、逃げた」
「おれと――、何か関係があるんですか」
「いいや?」
 やわらかい口調でウルドは否定した。モモセはこの問いをかなりの覚悟の上でしたのだったが、それはまったくの無駄だった。
「これは俺の問題だ。どうしてお前に関係がある? なぜそう思う?」
「なぜ――――って、」
 モモセは言い淀んだ。じわじわと顔が火照ってくる。それは自分のためにウルドがしたことのような錯覚をしていたことに、今更な
がら気付いたからだった。追い打ちをかけるように、ウルドの平然とした声がどうした、などと訊いてきて、モモセはいよいよ顔を覆っ
て俯いた。
「すみ、すみませ、ん。ごめんなさい、忘れてください……!」
 今すぐウルドの前から消えてしまいたかった。じわりと目頭が熱くなる。
「何を忘れればいいのか、よくわからない」
 ウルドはモモセの前に跪き、顔を隠す腕を掴む。
「いや、触らないで。見ないで」
 仔どもは身体を捩って主人から逃れようとする。けれど男はそれを赦さない。服の上からにせよ細い手首をしっかりと握られ、モモ
セにできることはせいぜい顔を背け、赤い頬を彼から隠すことくらいだった。
「いや、」
「いや、じゃない。俺はお前を好きなときに見るし、触る。スキンシップは大切だ」
「そんな下らないことに、わざわざ時間かけないでください――ッ」
「断る。俺にとっては最重要項目だ」
 きっぱりと断言したウルドは、そのままモモセの頬に手をやった。
「や、」
 短い拒絶とともに、モモセは首を振る。しかしそんな抵抗が効くわけもなく、モモセはあっさりと肌に触れることを許してしまう。
「モモセ、これはお前の義務だ」
 思いがけない言葉に、モモセは戸惑って男を見た。
「もう隠すのも面倒だ。そのほうがお前に触るのに楽だからな」
「――何を、」
 言いかけた台詞はウルドがモモセを抱え上げたことで途切れる。
「優秀なやつならお前が不可触民だと分かることもあるぞ? 俺はお前に触れることで、俺のベゼルをお前に刻んでいる。そうすれ
ばお前のベゼルが俺に隠れる。
 ――ただ無意味に嫌がらせをしているわけじゃない」
 ウルドはモモセと交代してソファに腰かけると、その前に仔どもを座らせた。モモセの両手を上から握り、腹の前で交差する。モモ
セの華奢な躯を背後から自由を奪うように抱きしめる。
 そうして、
「これは義務だ」
 と男は刷り込むように囁いた。
 モモセは睫毛を震わせた。こいねがう口調で訊ねる。
「義務……?」「そうだ」
「――義務……」
 茫漠とモモセは呟いた。
 冷たい手の指先をウルドはさすって包み込む。
 義務という言葉はどうしようもなく甘い匂いを撒き散らしてモモセの中に響いた。まるで麻薬だ。そのあまりの大きさに、顔を歪め
る。
「お前は理由がなけりゃいけないんだろう。だったら義務だ。俺がお前に平穏な学生生活を送らせるための義務、そう思っとけ。いい
か、俺に面倒は掛けさせてくれるな」
 モモセを受け身に持ってきたのがこの男のあざといところだった。ひどい、とモモセは感じずにはいられない。これをモモセが、とい
う主語を持ってきたのだとしたらすぐさま抵抗しただろうがウルドはそのようなことはせず、モモセは変わらず男の腕の中だった。
 ウルドは王族の人間だった。そのことを知ったときに覚えた戦慄はいまだに身体の芯を冷やしているのに、二度と傍に寄るまいと
決めたのに、モモセはどこまでも流されやすく、意志の弱い仔どもだった。
 自覚した罪の贖罪は何時の日ぞ。
 自分のため、ウルドのため。
 モモセは自身の出自を明らかにしないためにウルドに抱きしめられているけれど、ウルドはそれを逆手にとっていとおしさのために
モモセを抱いている。家族でもないウルドが毎日のこの行為に飽いるには、あとどれほどの時があるだろう。
 畢竟、血以上の愛情などこの世界にはなく、ウルドがモモセに興味を失うのは時間の問題だった。その時にはウルドは自分の過ち
を知り、きっとモモセを放ってはおかないだろう。その時こそが贖罪の日なのだ。




更新日:13.05.19






       



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